■太平洋戦争の名残 -間接的戦争体験
 ぼくが生まれたのは昭和22年の8月ですから、太平洋戦争が終わってちょうど2年がたったころでした。ベビーブームとはよくいったもので、ぼくをとりあげた産婆さんはそのころ大忙しだったそうです。あっちでもこっちでも、オギャア、オギャア…。確かに、小学校に入ると、家も近所で誕生日の近いのがやたらにいましたね。
 記憶は3歳の終わりごろからしかありませんから、昭和25年か26年ごろ。終戦から5、6年はたっていたのですが、戦時中の名残がまだありました。台所の裏のゴミ捨て場は防空壕のあとだし、縁側と座敷の境の敷居には大きな弾痕がありました。鹿児島本線の列車から降り、うちの方へ向かって逃げてきた日本の兵隊さん数名が、米軍機に機銃掃射を受けたときのものだそうです。防空壕から外をのぞいた母親は、サングラスをかけたパイロットの顔まで見えたと言っていました。そして、床下には弾が何発も突き刺さっていたとか。
 それから、4歳くらいのころ、うちから300メートルほどしか離れていないところにあった農機具工場で、不発弾が爆発しました。ここは戦時中、飛行機のプロペラをつくっていた軍需工場で、空襲を受けています。そのときの不発弾が、大音響をあげて爆発したのです。ぼくが驚いて表へ飛び出すと、工場の壁がまるで屏風が倒れるように崩れ落ちるところでした。まもなく、トラックの荷台に血まみれになった裸の男の人たちが折り重なるように積まれて、病院に運ばれていきました。2人亡くなったことをあとで聞きました。
 また、それから半年か1年ほど後のこと。昼間、東の窓がふいに暗くなったので上空を見上げると、大きなパラシュートが2つ飛び去っていくのが見えました。人ではなく、なんだか大きなものがぶら下がっています。ドキドキしながら、あわてて追いかけていきました。息を切らして、1キロほど走ったと思います。1つは畑に落ちていました。大砲でした。そしてもう1つはジープで、農家の屋根を突き破っていました。輸送機が故障したために、積荷をパラシュートで落としたというのです。こんなのを、間接的戦争体験とでもいうのでしょうか。

■古着と粉ミルクにはお世話になりました
 ぼくは進駐軍の兵隊さんを見かけたことはあっても、接触する機会はありませんでした。ですから、ガムやチョコレートをおねだりしたことはありません。でも、もののない時代にアメリカさんにはたいへんお世話になっています。1つは学校給食のときに出たミルクです。脱脂粉乳というと、ありがたいイメージはありませんし、まずくて飲めないという子がたくさんいました。でも、ぼくはこれがわりと好きでした。ただし、冷めたらダメです。熱いうちだとけっこういけるのです。ですから、飲まないヤツの分を確保して、「いただきます」と言うか言わないうちにグビクビッとやりました。なにしろ、脂肪太りの心配がありません。おかげで骨太の丈夫な体になりました。父は小学校の校長でしたから、特権で手に入れてきたのでしょう、うちには脱脂粉乳の缶がありました。缶といっても、分厚いボール紙でできていて、縁がアルミのような金属で補強してあります。形も大きさもドラム缶くらいで、いやもうちょっと大きかったかな? 物入れに使っていました。
 もう1つお世話になったのは古着です。市内の中心部にある公園内の建物で、定期的に進駐軍の払い下げ市が開かれていました。母親はこれを「アメリカ中古(ちゅうぶる)」と言っていました。ぼくもよくついて行っていましたが、会場には衣類が山のように積み上げられ、デパートのバーゲンセールのような光景でした。大勢のおばちゃんたちが汗だくで品定めをしていました。子どもものが多かったようで、そのまま着用できるものももちろんありましたが、うちの母親は大人ものでも、とにかく生地のいいものを探して買い求め、家で仕立て直していました。そのころ「純毛」という言葉を知りましたが、冬に着る暖かい服は、国産では手に入りにくかったのでしょう。確か、昭和29年の小学校の入学式に着ていったのは、母の手作りの学生服風の上着で、親戚からもらった慶應義塾大学の金ボタンがついていました。
4歳くらいのころ。愛用のハンチングはアメリカちゅうぶる。上着も仕立て直したものだろう。
春先に田んぼのあぜでセリつみをしているところだが、右側に立っている姉がはいているチェックのスカートは、まちがいなくアメリカちゅうぶる。こういうのを占領軍ファッションと呼んだらしい。

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