■たいていの野菜類は家で作っていました
 わが家は180坪の土地があり、100坪くらいは畑にしていました。そこで、日ごろ食べるたいていの野菜は作っていました。まず、イモ類ではジャガイモ、サトイモ、サツマイモ。根菜はダイコン、ニンジン。ゴボウは隣の農家が本格的に作っていたのをもらっていました。葉菜ではキャベツ、ホウレンソウ、フダンソウ、チシャ、京菜、シュンギクなど。ネギ類も青ネギ、タマネギ、ヒトモジ、ニラ、ニンニク。あとはカボチャ、ナス、キュウリ、トマト、ピーマン、オクラ、グリンピース、サヤエンドウ、ソラマメ、インゲン、トウモロコシ、ダイズ、アズキといったところ。
 また、ちゃんと育てなくても勝手に出てくるものがありました。雑草同然にそこらじゅう生えていたのがシソ。青ジソも赤ジソもありました。垣根にはつる植物が巻きついて実をつけました。夏にはニガゴリ(ニガウリ)が鈴なりです。いまは大好きですが、子どものころは食べられませんでした。大きなユウガオの実もなり、同居していた父方の祖母がかんぴょうを作っていました。祖母はヤマイモのつるになるムカゴが好きで、よく甘い味をつけて煮て食べていました。また、垣根の下にはミョウガがいくらでも出てきて、よその人がもらいに来るほどでした。垣根といえば、畑の周りはお茶で、新芽を摘んだり、もんだり煎ったりするのを手伝わされていました。母の田舎のほうはお茶の産地で、よくもらっていましたが、ふだん飲むのは自家製のお茶でした。
 ぼくが収穫をいちばん楽しみにしていたのは落花生です。イモ類と同じで、うまく育っているのを掘り出したときの喜びはひとしおでした。乾燥させ、カラカラになったところで殻を割って実を取り出し、七輪に炭火をおこして鉄鍋で煎ります。少し焦げてきて、香ばしいにおいがしてきたら、最後に濃いめの塩水をさあっとかけてかき回し、水分が飛んで、豆の表面に塩が白く粉をふいたところでできあがり。ソラマメも、とりたてをゆでて食べるより、乾燥させてから煎って食べることのほうが多かったですね。すごく硬くて、おかげで歯が丈夫になりました。遊びに出かけるときは、ズボンのポケットに煎ったソラマメを入れていきます。おなかがすいたらどこででもボリボリ。

■なんでこんなものまでと思うくらい、いろいろ作っていました
菜種畑をバックにとった昭和29年ごろの写真。後方左が筆者で右は2歳下の弟、手前は1歳下の従姉妹。
 畑はもちろん時期によって作るものがちがいますが、春先から初夏にかけて大部分を占領したのが菜種でした。「菜の花」と言う人もいるし、教科書には「アブラナ」と出ていましたが、うちでは種をとるからあくまで「菜種」でした。花が満開になったときはとてもきれいで、あたりに漂う蜂蜜に似た甘い香りに春を感じたものです。それが、夏が近づくと枯れてきて、ふっくらとしたさやの中に黒い種が育っているのです。ムシロの上で棒を使ってたたき、種を落とします。1升マスで数杯分とれていました。それを製油所に持っていくと、びんに入った菜種油と取り換えてくれました。油かすももらってきて、肥料にしていました。
 ゴマも毎年作っていました。初夏に種まきをして、秋口に収穫していたようです。これも十分に乾燥させて、種の入った実の部分をたたいて中身を出します。赤飯を炊いたとき、自家製のごま塩は欠かせないものでした。調べてみたら、現在ゴマは99.9パーセントが輸入品だそうです。うちは100パーセント自給していたのに。
 それから、ハブ茶というものも作っていました。薬用にするためで、便秘などに効くということでした。エビスグサというマメ科の植物らしいですが、夏に黄色い可愛い花が咲き、秋にさやをつけます。その中に小豆より少し小さいチョコレート色の種が入っていて、これを煎ったあと煮出して飲むのです。まずいものではなかったけど、好んで飲みはしませんでした。
 食用以外の作物もありました。ひとつはホウキグサ。いまはコキアという名前で観賞用にも売られていますが、枯らして庭ぼうきを作るために育てていました。なかなかはきやすかったですよ。いまも欲しいくらい。場所をとるので数株しか植えていませんでした。
 最後に内緒の話ですが、麻も作っていました。もちろんそれを大麻というなんて知りません。祖母が繊維をとってひもかなにかにしていたらしいのですが、「大麻取締法」はすでに昭和23年にはできていましたから、実は許可を受けないと作ってはいけなかったんですね。

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