■イモの皮を食べるのを、母はいやがったのです
 小学校に入る1、2年前ですから、昭和27年か28年のことです。それまで、ぼくは焼きイモの皮が大好物でした。皮ごと食べるのではなく、むいて中身を食べたあと、皮だけをおもむろに味わうのです。わが家でそんなことをするのはぼくだけでした。けっして、皮にも栄養分がたっぷりあることを知っていたわけではありません。もったいないからという気持ちもありません。ただおいしいから食べるのです。同じように、魚のあら煮も好きでした。とくにサバの骨のまわりの身が好物。母はそのことをよく知っていて、値段も安いものですからよく買ってきてくれました。安物買いには言い訳が必要だったのでしょうか、魚屋さんに「息子が好きなものですから」と言っていたようです。すると魚屋さん(姓が中村だし、いい男だったので、ぼくたちは錦之助さんと呼んでいました)は、「坊ちゃんは巧者か(賢い)ですバイ。ここがいちばんうまかですもん」と、いたく感心していたそうです。
 そんなわけで、魚のあらについては母もOKだったのですが、焼きイモの皮はNG。そんなことをするのは「下作か(下品だ)」というわけです。熊本の焼きイモは石焼きではなく、つぼ焼きでした。大きな素焼きのつぼの内側に針金でイモをつるし、下からコークスで焼くのが主流。ですから、石焼きのように皮が固くなりません。食べてもなんの問題もないように思われました。でもダメなのです。わが家はけっして上品を売り物にする家庭ではなかったような気がしますが、とにかく「下作か」です。
 そこで、なんとかやめさせるように父に相談したのでしょう。冬のある日、父はぼくを電車に乗せ、市の中心部にある花畑公園に連れていきました。ここには大きなクスノキが何本かあり、その下は市民の憩いの場所。テレビ放送が始まると、街頭テレビが設置され、いつも黒山の人だかりができていました。そして、公園のまわりの歩道に接して、冬場は必ずリヤカーを引いた焼きイモ屋さんがいました。当然、そこで焼きイモを買って公園内で食べる人がいます。皮まで食べる人はそういませんから、新聞紙に包んでゴミ箱に捨てます。すると、公園の周辺をうろうろしている浮浪者がゴミ箱を漁り、イモの皮を食べ始めるのです。その一連のシーンを、父はぼくに見せたのです。以後、ぼくはきっぱりとイモの皮を食べるのをやめました。

■食べ物には不自由していた昔のホームレス
 いまはホームレスという言い方が一般的ですが、当時は家もなく仕事ももたない人のことを、言葉を選んで言うならば「浮浪者」、ふつうは「かんじん」と呼んでいました。民謡「五木の子守歌」にも出てきます。そう、「おどま かんじん かんじん」。
 もともとはお寺を建てたりするために、僧が人々から浄財を集めて回る行為のことで、漢字で書くと「勧進」。その言葉の意味のとおり(といっても形態だけですが)、昔の「かんじん」はゴミを漁るだけでは十分に食べ物を得ることができず、家々を回ってご飯をもらっていました。わが家にもよく来ました。母は差し出された空きかんに、少しの冷や飯を入れ、味噌汁の残りをかけてあげたり、タクアンを一切れか二切れのせてあげたりしていました。ときには腐りかけたごはんでも、ないよりはましだろうと、入れてあげていました。(※腐ってしまったご飯でも、洗濯のりとして使っていました)
 いまはホームレスの人でも、食べ物はわりあい楽に手に入るようです。賞味期限切れのスーパーやコンビニの商品をもらったり、レストランや食堂の残り物をもらったりして、中には栄養の取り過ぎで糖尿病になる人もいるとか。一般家庭の食事より、ともすれば豪華な食事にありつけるのですから、その点だけを見ればいい世の中です。食糧の60パーセントを輸入に頼っていながら(これは事実かどうか疑わしいそうですが…)、大量の食べ残しが出るなんて、ホント、いまの日本は極楽です。

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