■鹿児島から船でまる一日、パスポートを手に訪ねた地
 昭和36年から37年にかけて、熊本日日新聞社が沖縄の緑化を支援する募金活動を行いました。当時の社長が、戦後初めて沖縄を訪れたときに、戦火に焼き払われたままの野山を見て心を痛め、もとの緑豊かな島に戻ってほしいと願い、県民に呼びかけたのです。その声は広く県外にまで届き、250万円を超える、当時としては破格の大金が寄せられました。そして、それを届けるための小中学生の「緑の使節団」が、「緑化」をテーマにした作文で選ばれることになりました。
 当時中学2年のぼくは、これにチャレンジし、小学校に入学する前年の昭和28年に起こった「6.26水害」を題材にしました。熊本市の中心部のほとんどが水没し、多くの人命が失われた未曾有の大水害の原因が、戦争中に阿蘇方面の木を乱伐したことにあると聞いていたので、植林が人々の命や暮らしを守るためにいかに大切かということを書き、それが評価されて、ぼくは使節団の団員に選ばれました。
 37年3月、約20名からなる使節団は、鹿児島から1600トンの船で、25時間かけて沖縄に辿り着きました。米軍の占領下におかれた沖縄が本土に復帰するのは昭和47年(1972年)ですから、ちょうどその10年前。渡航にはパスポートが必要でした。
泊港での大歓迎の様子。こちら向きに整列しているのが使節団
 那覇市の泊港に着いて驚いたのは、大歓迎を受けたことです。下船する前に地元の新聞記者が乗り込んできてインタビュー。そして船を下りると、中学生のブラスバンドが歓迎の演奏を始め、整列をしたぼくたちのもとへガールスカウトの人たちが駆け寄ってきて、一人一人の胸に「緑化章」というバッジをつけてくれました。ぼくは最年長でしたので、子ども代表として挨拶しました。以後、いろいろなところで代表の役割を果たさなければなりませんでした。
 挨拶の中で、ぼくたちの目的が2つあることを述べました。熊本県民の心のこもった緑化募金を届けることと、沖縄の人々との親善をはかることです。後者は、琉球政府の文教局やガールスカウト、新聞社などがお膳立てをしてくれました。各地で地元の小中学生との交換会が開かれ、新聞社では座談会を開いてくれ、紙面に大きく掲載されました。
■標準語を立派に話す沖縄の人々にびっくり!
 実をいうと、沖縄に着く前、ぼくは言葉が通じるかどうか不安でした。パスポートが必要で、行くのにまる1日以上かかるところに住む人って、まるで外国人のイメージじゃないですか。使節団の中には、向こうは当然英語のはずだと考えている子もいました。ところが、なんとなんと、沖縄の子どもたちはぼくたちよりもずっときれいな標準語を使っていて、こっちが恥ずかしくなるくらいでした。多くの子たちとすっかり仲良くなって、買い物にもつきあってくれたし、あとで文通をするようになった友達もいました。
 初めて経験することがたくさんありましたが、心に残っているのは、各地での歓迎会で食卓に出た飲み物です。分厚いガラス瓶に入った茶色の炭酸飲料。初めは薬のような奇妙な味に馴染めませんでしたが、ふしぎなことに、だんだんおいしく感じられるように。熊本に帰ってまもなく、街頭の自動販売機にそれが登場しましたが、アメリカ生まれのコカ・コーラを初めて口にしたのは沖縄でした。車が右側を走るのを見るのも初めて。バスの乗車口が右側にあるので、最初はまごつきました。
式典のあとで大田主席(中央)と
 米ドルに交換した約7千ドルの募金は、到着の翌日に開かれた琉球政府創立10周年の式典の最後に、大田政作行政主席に渡されました。3月とは思えない強い日差しを浴びながら、政府の建物の中庭で開かれたランチパーティーにも、米軍の将校やその家族に混じって参加しました。
 南部の戦跡巡りもしました。戦争からまだ17年しかたっていなかったこともあり、一帯はいまのようにきれいに整備されてはおらず、林の中にたくさんの慰霊碑がポツンポツンと建っている状態でした。ボロボロの革靴を見つけて持ち帰った団員もいました。どうするつもりだったのでしょう。
 どこへ行っても、ぼくたちは特別扱いでした。一般人は近づくことさえできない米軍施設の中にも入ることができました。施設内のアイスクリーム工場で、それまで味わったことのない、目玉が飛び出るほどおいしいアイスを食べさせてもらいました。いま考えれば、あそこがブルーシールの工場だったんですね。
 米軍将校のクラブでランチをごちそうになったりもしましたが、見晴らしのいい場所から景色を眺めると、いいところは全部アメリカにとられているなという感じがしました。当時も、本土復帰に向けての運動が盛んに行われていましたが、ぼくが最初に見た沖縄は、完全に外国でした。
 お土産もほとんどがアメリカ製品。お小遣いは10ドル(3600円)と決められていたので、本物のハブの皮を張った三線のレプリカのほかは、ネスカフェのインスタントコーヒー、ハーシーのチョコレート、リグレイのガムで消えてしまいました。
 あっという間に4日間の滞在期間が過ぎましたが、日々の出来事をいまでもはっきり覚えているほどで、14歳のぼくにとってはほんとうに濃密な時間でした。この貴重な経験が、ぼくがジャーナリストを目指す大きなきっかけとなったのは確かです。機会をつくってくれた新聞社への感謝の気持ちと、新聞というメディアが人々の心を動かし、多額の募金が寄せられたことへの感動とが重なり、いつか自分もそれに近い仕事ができたらいいなと思うようになっていたのです。
<関連画像>・使節団の結団式(新聞記事) ・米軍基地をバックに ・当時の「ひめゆりの塔」
■10年後に再訪、募金が生かされていたことをレポート
 これには後日談があります。ぼくたちの訪問からちょうど10年後、沖縄はめでたく本土に復帰します。そのころ、ぼくは就職して3年目、学習研究社というところで、子ども向けの学習雑誌の編集をしていました。担当は「4年の学習」。記事の企画を考えているとき、ふと10という数字が浮かんできて、しばらく頭から離れませんでした。
「そうだ、ぼくが作っている雑誌の読者は今年10歳になる。あの年に生まれた子どもたちだ。緑化募金はどのように生かされたのだろう。10年もたてば赤ん坊が4年生になる。募金だってなんらかの結果が出ているはず」
 そのことに気がつくと、いても立ってもいられず、すぐに沖縄県庁に問い合わせの電話をかけました。すると、緑化募金をもとに、おもにワシントンヤシというヤシ科の植物の苗木が、県内の学校や公園などに配られ、立派に育っていることがわかりました。「これは行くしかない!」と、ぼくは編集長を説き伏せ、本土復帰を記念して開かれる予定の「沖縄国際海洋博覧会」の準備のもようも取材することを条件に、企画を通しました。
 現地では4年生の読者数名に協力してもらい、学校の校庭に植えられたヤシの木や、道路沿いのヤシ並木を見て回りました。ぼくたちが届けた募金は、期待通り沖縄の緑化にしっかり役立っていたのです。とくに、現在の南城市佐敷にある長い並木は、地元の名所となっていました。<関連画像>・熊日の報告記事

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